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新聞の役割と課題について [そこくるりずむ]

新聞というメディアはそれ自体が語るということを自動化しているので、「新聞の役割と課題」を知るには「新聞を読む」ことが一番であるのは言うまでもない。しかし、「新聞のこれこれこういう所が…」という分析が、必ずしも分かりやすい役割と課題を示してくれるわけではないのも確か。また、あまりに大きくなりすぎているこのメディアの全体を総じて述べるのは容易ではない。なのでここでは「今、時代先端的なもの」の構造を分析し、それを新聞に当てはめることで、役割と課題を浮き彫りにさせる、という手法を取りたいと思う。

ではその「今、時代先端的なもの」を何にするか。ここでは、昨年から引き続き話題を呼んでいるソーシャルネットワーキングサイト「mixi」を取り上げたい。

 

昨年は流行語大賞も受賞したmixi。ソーシャルネットワーキングサイト(SNS)という会員制のコミュニケーションサービスで、Web上の日記やメッセージ交換などが主な利用。利用者は既に入会している登録ユーザーから招待を受けないと登録ができない完全招待制を採用しており、それが健全で安心感のあるコミュニティ形成に役立っている、とのこと。2004年2月の運営開始から、現在の利用者数は660万人(06年11月)以上。東証マザーズ上場や事件などで話題になったのは記憶に新しい。

では、なぜこれほどまでにmixiが会員数を増やすことが出来たのか、なぜこれほどまでに人々はmixiを利用してしまうのか、それを考えてみよう。理由はいくつかある。「日記を公開しコミュニケーションする楽しさ」だとか、気軽に「友達とも知り合いとも言えない関係を作れる」だとか、今までになかったツボを上手く貫いた点だ。が、別にここでは「mixi論」なんてものを確立するつもりではないので、挙げるにとどめておく。大事なのは次の一つである。mixiが成功した理由の一つかつ最も大きいもの、それは、「Webに線を引いたこと」だ。

以前までのネットの語られ方というと、双方的コミュニケーションの可能性、枠にとらわれない知の無限の広がり、とめどなく広がっていく情報の共有空間…、などなど、その「際限なく続く連続性-広域性」に終始しているものが多かった。ネットの中では今までにない自由が保障されており、またそれがWorldwideWebたる所以でもあったのだ。が、mixiはそれに敢えて「線を引いた」。すなわち、「自由であるが故に、無限に広がっているが故に、」というネットの存在意義をラディカルに批判しつつ、ココからココまで、という領域を定めることで、一定の基準を作ったのである。これが今までのネットワークサービスに無かった考え方だ。(mixiには結局線など引かれていないではないか、ないし、基準なんて作り出してはいない、などという批判ももっともであるが、利用者の大半はその線に惹かれている。)しかし、言われてみればこれは至極当たり前のことでもある。我々はインターネットで検索しようにも、「検索ワードに何を入れていいやら分からない、何も出てこない」なんてことはよくあるし、その“何か”を探すために利用しているニュースサイトやまとめページが作っているのも、同じ「領域」と「基準」だ。mixiはそれをコミュニケーションというエリアに持ち込んだのである。

 

 

さて、この「線を引く」という行為、これは新聞が行っていることの一つに他ならない。社会という無限の広がりに対して、報道と言う形での共通認識を作る傍ら、新聞社はそれぞれの「解釈」を伝えて基準を作る。また、新聞が作り出すコミュニティは一定の報道による共通理解だ。すなわち、我々が情報に対してアプローチする際の基準を担うのが、新聞の役割の一つなのである。

よく、新聞に対してなされる批判として、「新聞は真実を伝えていない。書き手の心境など聞きたくないのだ。ただ淡々と事実だけを書いておけば良い。」というものがある。テレビにしてもラジオにしても、事実のみを伝えることこそが報道のはずだ、という風潮は消えずに存在し続けている。が、そういった批判はもはや的外れではないだろうか。書くほう読むほう両方ともに人間が介在する以上、そこに何らかのフィルターが加わることは免れない。「淡々と事実だけを伝えること」は、おそらく不可能である。もちろん、だからと言ってその恣意性を遺憾なく発揮されては困るわけだが。

すなわち新聞は、「社会を判断するための基準を作る」ことと同時に、「その基準がどういったものであるかについて語る」こともしなくてはならない。何も新聞に限ったことではないが、後者が如実に現れるのは新聞を置いて他にないだろう。

インターネットを称して「玉石混合」といった表現が今ではよく見受けられる。どこに信憑性があるのか、あるいはどこに嘘があるのか。人間の手を渡れば渡るほど、情報には単純な量的爆発以上の問題が表れるのだが、その対応に関して垣間見えるものが今の新聞における課題ではないだろうか。今の新聞がその「玉」と「石」を見分けられているかどうか、それは大した問題ではないし、報道という場面に関わっている方々がその選別をきちんとしていないわけがない。しかし、「線はここに引かれていますよ。」というアナウンスがしっかりとなされていない現状があるのは確かで、それが今一番の新聞の課題ではないかと思う。

少し領域が大きすぎるのでまたmixiに戻して話を進めてみよう。mixiの課題も同じところで、「ここまでが会員ですよ。」という線引きがユーザーに知らせられていないのが問題なのである。ここまでが、というか、「会員の中には、こんな人もいますよ。」ということが、語られていないのだ。

 

線を引くと言うのは重要な行為だし、我々がそれを求めているのも確かだ。そして何度も述べているように、そこにある程度の恣意性が組み込まれるのも仕方が無い。が、その恣意性も含めた「線の存在」を我々に伝えてくれるだけの良心が、メディアのその内に組み込まれているかというと疑問符がつく。これから先さらなるメディアミックスがなされていくのは間違いないだろうが、その中で新聞が担う「線引き」の役割は今まで以上に必要とされるだろう。その時に、なぜその線でなければならないのか、その線はどういったものなのか、新聞はきちんと語らねばならない。

 

 

 

というようなことを喋る練習をしておかないと。

書くのとしゃべるのはだいぶ違う。


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