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blog凍結のおしらせ [そこくるりずむ]

長らく更新していませんでしたが、

凍結ということで、そこくるり2、おしまいです。

So-netブログ、いつのまにこんなに重くなったんだ…。

 

人間やっぱり、いくつになっても自分の痕跡って恥ずかしいものなんですね。

送信メールを見たときの恥ずかしさ、に似てるような、

ぶつっと断線してしまいたいような思いに駆られています。

 

読み返してみると、ごくたまに面白いものもあるので、

検索などでお着きになった方は読んでみてもいいかもしれません。

 

使いやすいblogを探してまた新たに始めます。

ご愛読いただいた方々、ありがとうございました。

 


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「祭りオタク」について本気出して考えてみた [そこくるりずむ]

オタク、という言葉の中に含まれる人物の姿かたちについて、最近思うところがある。

自分の周りだけ「ではない」広がりを見せている、インターネットを介した「実体のない気運」のようなもの(例えばニコ厨など)の正体は一体何なのかと何かにつけて考えていたのだが、昨日とある人との会話の中で面白い結論に結び付けられそうだ!と直感的に感じ、今タイピングしている。

 

1970年代のアニメ、特にガンダムブームを始祖として語られるオタクが、その言葉の範疇に含むものをどんどん増大させてきている様は、1960,70年代の「学生運動」的気運とどこかマッチするような気がしてならない。

 

 

 

斉藤環の『戦闘美少女の精神分析』を始め、様々なところでオタクの定義はされているが、主だったものは大体次のようなものだ。

・ある分野について、お金や時間にに糸目をつけず、全てを注ぎ込める人。

・アニメや漫画などの二次元"的な"ものを偏愛する人。

 

 

オタクのファッションについても色々と調べているが、やはり彼らがネルシャツにジーパンという服装(もちろんシャツはズボンにin!)なのは、単純に「DVD」や「フィギュア」にお金を注ぎ込んでいるからであるし、そうやって自らが偏愛するものに対する「知識」や、「モノ」をコレクションすることに快楽を見出している様子は、偏愛と言って過言でない。

パソコンオタク、鉄道オタク、アニメオタク、ミリタリーオタク、どうしても男性的なイメージがつきまとうのは仕方が無いが、そこは新たなジャンル「女性オタク」の登場によって、バランスが取れてしまった印象がある。クルマオタク、バイクオタクと続けると一気に領域は広がったように思えるが、そこにどこか近寄りがたい雰囲気が伴い続けるのは、やはりその閉鎖性によるものだろう。

とにかく、誰彼に聞いても一致するオタクのスタンダードなイメージは、やはり電車男などで培われた「あの姿」なのである。「あの姿」と聞いて今あなたが思い浮かべたイメージとスタンダードは、あまり変わらない。

 

 

 

しかし、最近(特に『涼宮ハルヒの憂鬱』以降)、オタクという人種にもう一つ、分野が加わったような気がしてならない。先ほどまでに挙げた「オタク」とはまた違った側面を持つオタクたち。そこくるりは「祭りオタク」と呼んでいるが、そうした人たちがある意味で現代のオタク界をリードしているような気さえする。ピンと来る人来ない人、両方いると思うが、その「祭りオタク」について少し見てみよう。

wikiの「祭り」の項に、「インターネットスラング」として掲載されている。


一部の電子掲示板で、特定のスレッドが異常な盛り上がりを見せ、流れが通常よりも速くなっている状態を(お)祭りという。

「祭り」が起こる原因はブログ炎上や芸能人等のスキャンダルな事件・ニュースが多いが、ネットいじめ(祭り上げられる)等といった迷惑行為であることも少なくなく(そうでないメディア等のアンチテーゼの場合もある)、それを見て面白がった者達が関連する掲示板のスレッドなどに続々と参加することによって「祭り」が更に盛り上がる。

この状態になると、「祭りだワッショイ(ワショーイ)」、「( ´∀`)お祭りワショーイ」というような書き込みも多くなる。

また、単に群集心理などに乗じた愉快犯的にこの様な行為を好んで行う者を指して、「ネットイナゴ」などの言葉も作り出されている。


 

こうした愉快犯的行動の最たるものとして、「オリコン1位にしよう運動」を見てみる。

 

 

 

 

2005年の『魔法先生ネギま!』テーマソング、『ハッピー☆マテリアル』。なんだかまだ記憶に新しいな、が、この運動のスタートである。5月31日付けのITmediaニュースで取り上げられ話題になったが、「オリコン1位にしよう!」サイトが立ち上げられ、Amazonや店頭などの購入を促進して結局最高3位まで上り詰めた。1月からの6ヶ月キャンペーンで割と長い戦いを強いられたようだが、1位をとれなくともあまりある勝利を、祭りオタクたちは手に入れた。因みに僕は5月バージョンが

2006年は『涼宮ハルヒの憂鬱』テーマソング、『ハレ晴れユカイ』。こちらは最高5位とハピマテには叶わなかったものの、「振り付け」という新しいジャンルを持ち込むことで、今まで以上の興隆を見せた。「高校の文化祭で『ハレ晴れ』踊りました!」というスレやらカキコミやら動画やら(ちょうどyoutubeが市民権を得始めた頃だ)がアップロードされたのは記憶に新しい。

キャラソンの売り方については「アニメ製作側が儲けるために『1位にしよう運動』をもちかけたんじゃないか!」と、オタクならではの冷めた視線もあったが、祭りオタクの絶対数がここで大幅に伸びたために、オリコン5位を獲得できたのだろう。メーカーに踊らされていると分かっていても、踊りたいのである。

 

そして2007年、『らきすた』のテーマソング『もってけ!セーラーふく』は、ウィークリーチャートで堂々2位を獲得することになる。これはまだwikiがアツイのでこっちを見たほうが早いだろう。言わずもがな、今年一番のブームとなったアニメのテーマソングはニコニコ動画の普及と合わせて数々のMADを生み出し始めた。また中途半端に出来が良過ぎる(真似されることを想定して作ったんじゃないかと思うくらい)オープニングアニメーションのおかげで、絵が描けない人も、小説が書けない人も、「二次創作」を行うことが可能になったのである。この功績は大きい。

平野綾効果、あるいは『らき☆すた』そのものがもつ自虐性自嘲性などなど、要因は他にもいくつかあるだろうが、二次創作の可能性をさらに広げたことで、ムーブメントそのものも大きくウェーブした。どこまで泉こなたが愛されていたかは曖昧3センチだが、祭りオタクがパロディのパロディだと分かってそれを享受していたことを考えると、そりゃ唯一ぷにってことになる。もとい唯一無二。ちょっ!歌詞の心地よいラッピングが清福(制服)で、1位を獲得したV6の新曲と比べても全然不利ってことはなかった。ぷ。

 

 

 

そうして広がった幅は、今『初音ミク』の登場による「音声二次創作」によって新たなステージへと進んでいる。もう、作ることは、楽しいのだ。

 

 

 

で、だ。それぞれのアニメで一つずつレポートは書けてしまうだろうが、それを包括的に見たとき、最初に書いたように、そこにあるモチベーションが極めて「学生運動」と似ているのではないかと、そこくるりは考えたわけである。

それを二つの側面から見てみよう。祭りオタクのオタク的側面と、学生運動的側面、それぞれの合致点とズレが、より祭りオタクの実体を暴いてくれることに違いない。

 

 

まずオタク的側面について。

オタク的、と言っている時点で先ほど書いた「オタクの定義」と合致する部分が多数あるのは分かるだろう。オリコン1位運動にしても、それらは全て「アニメソング」である。別に「倉木麻衣の曲を1位にしよう!」でも「鈴木あみの曲を1位にしよう!」でも、何でもいいはずなのだが、アニソンが選ばれたのは祭りオタクがやはりオタク的側面を持っているからに他ならない。

また、その「祭り」という側面も、オタクに必要な項目だ。

「祭り」のそもそもは、「祀る」であり、神様を崇め称えるという動機から生まれたものだった。とするとまず、オタクたちに祀られているものは果たして何なのか、という疑問に突き当たる。これは中々答えを出すのが難しいのだが(そこくるりくんは「母」であると主張したい)、とりあえず、何かしら実体の良く分からないものであれ「祀っている」ことは確かだ、という答えで抑えておきたい。対象も大切だが、その行為に今回は注目してみる。

 

再び斉藤環だが、彼によると「オタクの持つフィギュアは、いわゆる仏像の類」だという。これには心底頷ける。祀っている何かを偶像崇拝するために、オタクたちはフィギュアを集める、なんとも説得力のある言説だ。として、「設定本」や「同人誌」は、「経典」や「伝記物語」にあたるだろう。

そして先ほど挙げた「振り付け」。あれはさながら「盆踊り」である。シャーマンさながら、神を称えて祀るために、オタクたちは『ハレ晴れユカイ』を踊り、「もってい~け」と歌う。宗教とまでは言わなくとも、それに近いモチベーションで彼らは動いている。

 

つまり、資質として彼らは十二分にオタク足りえているのである。

 

だがしかし、最初の方で想像してもらったオタク(「あの姿」)のようなスタンダードさが、この祭りオタクのイメージと合致するかというと、そうではない。むしろ、緑チェックのネルシャツにダメージジーンズ、そしてダンロップのスニーカーにリュックからはポスターが…と散々揶揄されてきたような人種が、祭りに参加している姿は異様に思えるのではないだろうか。普通のオタクたちは、その作品が好きであれば祭りであろうがなかろうが「買う」はずだ。ハピマテのCDがオリコン何位になろうと関係ない。それは二次元偏愛者だけに限ったことではないだろう。

このように、コレクションを髄とするオタク、好きなものに対しては極めて純粋な態度をとる「普通のオタク」と「祭りオタク」の間には、埋められない溝がきっちりと掘り込まれているような気がする。だから前者は、マニアと言い換えても良いだろう。

 

つまりここまでの条件として、祭りオタクは、

・二次元的なものはそんなに嫌いじゃない。

・まぁでも、コレクションまでは別にしなくていっか。

という人種なわけだ。こうした態度自体、「ゆとり」によって形成されたのだ、という見方もある。

異論もあるだろうが、次の側面に移ろう。

 

 

 

学生運動的側面について。

どうにも、近頃の「Web炎上」などの様相を見ていると、そこに「ネット版学生運動!」のような気運が見え隠れしてならない。最近だと『恋空』のAmazonレビュー事件や、「薮本雅子ぶろぐ」あたりが有名だが、ROMの数を考えると相当な「運動」になっている空気はヒシヒシと伝わってくる。

 

 

スイーツ(笑)

 

そもそもの学生運動とは、社会的ないし政治的なものへの批判を持ちやすい学生が、自分たちのモヤモヤした気持ち、社会に出るまでのモラトリアムに悶々とした日々、モテないことへの恨み辛み、などを仮託して行うものである。何かしら自分の主義主張と合わないものへの反発を、あり余っているエネルギーを一挙に発散させて行う運動は、安保闘争や全共闘のようにパワフルだ。

として、Webを炎上させるようなモチベーション、あるいは大して好きでもない音楽のCDを買ってオリコン1位を目指すようなモチベーションは、やはり学生運動のそれとほぼ同じなのではないだろうか。

 

学生運動と祭り運動の共通点を挙げてみよう。

 ・大学生、あるいはそれに近い年齢、職業の人たちによって行われている。

 ・自らの主義主張に近い「徒党」に属し、運動を行う。

 ・抵抗反発すべき対象に対しては容赦のない批判を行う。

 ・その活動に全てを捧げようとしている人が居る一方で、大半は「なんとなく」従事している。

 ・大人数で行うことで、それなりの成果が生まれる。それが次なる運動の動機につながる。

 ・モテない。

これくらいだろうか。確かに、似ている。

これまたイメージの問題だが、学生運動が行われていた当初の映像に出てくる人たちが、そのまんま2007年の現在にPCの前でblogを炎上させる書き込みをしていると仮定して、あまり違和感がないのはなぜだろう。せいぜい、拡声器とヘルメットがマウスとモニタに変わったくらいだ。

 

 

とりわけ、恋愛至上主義の社会が完成した現在において、モテるモテないは「主義主張」に関わる問題にすらなっている。とすると、そこで抱く不条理さ「なんでモテねぇんだよ!」というような怒りが屈折して、「もう、オリコン1位にしてやんよ!みっくみくに(ry」と成り代わっていくのは想像に難くない。

そして彼らの活動範囲であるインターネット空間は、まだ無法地帯であるがために「人の利(人数)」を活かした「運動」であれば勝利は確実になる。よく出来たつくりである。

何か腹が立つ ブームが起こる 炎上させる 自分が炎上させた気になれる またブームが

という流れは、

何か腹が立つ 運動が起こる デモに参加する 自分が何かやった気になれる また運動が

という学生運動の流れと変わらない。

両者ともに、そこに目的や展望を持っている人物は一握りなのだが。皮肉だ。

 

 

 

 

 

長々と、祭りオタクの持つ2つの側面について見てきた。

彼らはやはり、ある程度オタク的なものを愛しつつ、

かつ自らのルサンチマン(モテなかった、才能が無い、金が無い)を発散する場所を求めている。

その欲望がネットという空間で出会い、大きな運動となるのが、「祭り」なのだろう。大学生で、かつヤンキーやギャルになりえない人種が行き着く先は、1960年で言う学生運動家、2007年で言うオタクなのだ。

祭りオタク=Vipperじゃね?という意見もあるだろうが、やはりそこにはどうにも埋まらないズレがある。「祭りには参加するがVipは見ない」という人もいれば、「VipperだがCDを買うのは断るッ!」という人もいる。2chが果たしている功績は大きいが、必ずしもVipperないしニコ厨だけが祭りを作っているのではない。

 

 

 

 

一斉にニコニコ動画が普及した様を見ていて抱いた感想から、こんなことを考えたわけだが、よくよく思い返してみると、2004年、あるいはもっと前、02とか?から、その地盤はどんどん整えられてきていた気がする。

ネットスラングが一般に使われるようになるまで、以前はそれなりに時間を要していたが(半年とか)、今はもうそのタイムロスがほとんどなくなってきているような気がする。単純なネットインフラの整備と、社会情勢の変化、コンテンツの充実など時間によってもたらされた枠組みの改変によって、新たな学生運動の基盤がオートマティックに整備されたと考えると、なんとも「歴史は繰り返す」な、といったところだ。

 

さてまた、次の祭りが始まっている。


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カンガルー的落胆 [そこくるりずむ]

カンガルーのお話。

 

カンガルーっていうのは、なんていうか、有袋類で、お腹の中で赤ちゃんを育てるのが主なイメージ。カンガルーボクシングも有名で、パンチやらキックやらの威力が強烈なのは、まぁまぁよく知られている事実だろう。あとオーストラリア、そのラベルは簡単にはがせない。ピョンピョン飛び跳ねる姿、茶肌色の毛並み、などなど、

あと、カンガルーの名づけには面白いエピソードがある。キャプテン・クック船長が、原住民のアボリジニーに「あの動物は何という名前だ?」とたずねたら、返ってきた言葉が「カンガルー」だった、のが名前の由来らしい。その「カンガルー」は、実は現地語で「私は知らない」という意味だったのだが、クック船長はそれを名前だと思い、そしてそれが広まった、っていう説がある。いわゆる言語的誤解が生んだ新しい価値の産物、があの動物だということらしい。普通に「カンガルー」と呼ばれていた、という説もあるらしいけども。

で、ここから、同じ言語空間内でないと名づけは成功しないそのソシュール的な方向へも話はもっていけそうだけども、今日はそっちじゃなくて、有袋類と母親の話、をちょっとしたい。

 

 

 

カンガルーの出産と、袋で育てるまでの順を引用。

 

カンガルーはメスのおなかに袋があり、その中で子供を育てる有袋類の一種としてよく知られています。

カンガルーは一年中発情期で雌はいつでも妊娠しています。有袋類の胎盤は原始的で胎児を長く育てる事ができないので、卵の栄養分を使い果 たすと、妊娠後、数週間で(種類によっても異なるが、約4~6週間)未熟な状態の胎児を産み落とします。マッチ箱程度で毛も生えてなく、目も見えない、耳の穴もあいていない赤ちゃんは、母親がおなかから袋までの道のりをなめた匂いを頼りにして這いのぼり育児袋に入ります。赤ちゃんの手はとっても発達しているのです。そこで、袋に入った赤ちゃんは「コレだ!」と決めた一つの乳首にすいつきます。その為、離乳が近い子供と 産まれたばかりの子供が同時に袋の中に入っていても乳首を取り合うことはありません。乳は子供がすうのではなく、母親が筋肉を動かして規則的に送り込みます。ある程度大きくなると、乳首から口をはずして袋から顔を出すようになります。子供が袋から出て生活をするのは 、これまた種類にもよって異なりますが早いもので7~8ヶ月後、遅いものだと18ヶ月後です。

http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30068/animal/kangaroo.html

らしい。

で、袋の中である程度一人前になるまで、赤ちゃんは育つわけだ。そもそも、生まれてすぐの赤ちゃんが、匂いを頼りに袋の中へと登る、というのは驚きで、目も見えないのによくアクセスできるな、というのが素直な感想でもある。生きるために、袋の中へ。出戻り、じゃないけれども、なんだろう、ヤドカリがより大きな家へと引越しをするよいうに、生まれた時から子宮→袋という引越しを余儀なくされているカンガルーは、なかなかつらいものがある。

 

で、ぬくぬくと袋の中で彼らは育つわけだけれども、彼らはその最中、どのくらい「母親」を意識しているんだろうか、という疑問に行き着いた。母親の中に、いる、んだけども、それを実感するのは、外に出て初めて、のはずで、つまり生まれてから意識が芽生える(目が見える)ようになるまで、しっかりと「母」の中に居るというのは、どんな体験なんだろうと、ちょっと気になったのだ。いやまぁ、カンガルーのことだから、人間さんはほっといてくれよー、という感じだろうが、そこはおせっかいに、いくのだ。

そしてどうやって、父を認識するのか、その過程も非常に面白いのではないか、と思った。

 

 

 

 

カンガルーは、生まれて、袋に入って、目が見えるようになって、で、袋から外へとちょこんと顔を出すようになる。その時初めて、外を見るわけで、上向きに、そう下から、母親というものを見る。けれども、それは何ていうか、中からの目線での他者認識であって、袋の中にいる限りにおいては、それはどこまでも「母」で、決して「カンガルー」ではない。つまり自分もまだ、「カンガルー」では、ないのだ。

難しいな。

 

カンガルーがどれだけカンガルーをカンガルーとして意識しているかどうかは分からないが、それはちょっと置いといて、アクロバティックに進めると、つまり、カンガルーの赤ちゃんが最初に見る「カンガルー」は、父親、ないし、他の「カンガルー」、なのである。

母親よりも先に、別のカンガルーをカンガルーとして認識するわけだ。これが、面白い。母親もカンガルーなのに。その時点で母親とは、母親らしい外部、でしかなく、袋を出て初めて、「カンガルー」"だった"と気づく、のである。

 

 

 

 

 

人間の場合は、まぁ家族構成や生み方や場所時間方法色んなものに影響されはするものの、大体、子供に意識が芽生える(目が見える)頃にはもう、母親というのは「対峙する対象」として近しいものになっている。触れるし、そして見える。この見える、というのが決定的な違いで、つまりそれを形として、有限なものとして把握できる、ということだ。

袋の中だと、もちろんそれは有限なわけだけども、自分が入っている空間、視界に収まらないものは、無限である。つまり母は無限の存在、なわけだ、カンガルーの赤ちゃんにとって。

 

 

で、人間の場合は最初に対峙する対象=母、が基準となって、それ以降の「人間」という認識は始まっていく。つまり「母親きっかけ」で、人間は処理されていく、わけだ。母親から生まれた自分は、母親と同じものだ、という自己承認と、そして母親と同じようなもの=自分とも同じようなもの、すなわち人間というものの限界をそこに形作っていく。

 

が、カンガルーの場合、「母」は処理される。父親、ないし他のカンガルーと同じもの"であった"という、過去形での処理を、外に出た孤高のカンガルーキッズは行うわけである。なーんだ、同じだったのか、と。今まで無限であると感じていた母親が有限であることに気づき、母は基準ではなく、比較対象の一つの結果、になるわけである。そして、その母親と同じである自分、というものを認識して、自分もカンガルーだったんだ、ということにようやく、気づく。そうやって、自分を承認するわけである。

 

 

母親を基準に判断をしていく人間と、

外部を基準に判断をしていくカンガルー。

なかなか面白い対比なんじゃないかと思う。

 

 

もう少しいくと、カンガルーはそうやって、「がっかり」しているんじゃなかろうか。いや、カンガルーだからそんなことは考えないんだろうけども。なーんだ母親は有限だったんだ、と、母親も同じ「カンガルー」だったんだ、と。そして自分も同じカンガルーだったんだ、無限じゃないんだ、と理解し、そして落胆しているんじゃないかと、思うわけである。

 

これを僕は「カンガルー的落胆」と呼びたい。

 

 

 

 

このカンガルー的落胆、が、

人間にも応用可能な素敵な要素なんじゃないかと、最近考える節があるのだ。

カンガルーは決して、そんなこと微塵も考えてないだろうし、落胆なんてしてないんだろうけど。

そこがまた、いいよね。

 

 

 

 

 

 

 

つまり、そういった、「なーんだ、そうだったんだ。」と、そして「自分も、そうだったんだ。」という二重の落胆、こそが、人間の「ねじれ」を紐解くキーワードなんじゃないかと思う。一歩外に出て見ると、今まで自分が居た場所というのが、実は外と同じもので、みたいな。こう書くとちょっと浅すぎる気がするな。まぁでもそれが一番分かりやすいか。つまり、自分の母は「どこにでもあるものだった」という落胆と、そして自分も「どこにでもあるものから生まれたどこにでもあるもの」でしかないという落胆、その二つによって、ゆがみが生じるのではないか、ということである。

それに気づかなければ、つまり袋から外に出なければ、それは見えてこない。

ずっと、無限(と思われる)袋の中で対象を比較している限り、それは幸せで、カンガルー的落胆も決して訪れなくて。けれども、一度外に出て見ると、見えてくるのは有限な母親と有限な自分。比較対象として見てきたものものと同列に、自分も比較されうるという立場に、晒されるわけである。絶対的な存在が、一気に相対デビューする。その衝撃に耐えられるか耐えられないか、が、ゆがむかゆがまないか、にそのままあてはまるんじゃなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

そうやって、自分の存在が相対的なフィールドに還元された時、耐えられなかった人はいくつかの選択肢から一つを選び取らねばならない。

・自分が絶対的になろうと努力すること。

・絶対的な存在へと回帰しようとすること。

他にもあるだろうが、今はこの二つの対比だけでいいか。言い換えれば、修行・創作?そのどちらかを行うことが、ねじれと付き合って生きていくための方法なのである。修行は、それはそれで一つの方法だが、修行というだけあって道は厳しい。悟りを開く、まで、ゆがみとの格闘は続く。ここでは後者の「創作(捜索)」に注目しよう。

 

 

「絶対的な存在へと回帰しようとすること。」もうこれは、母への回帰、なんてあっさり言ってしまって問題ない、と思う。もうエヴァンゲリオンを始め、挙げ始めたらきりが無いくらいにそういったモチーフは描きつくされている。ゆがんでしまった人たちは、絶対的な存在、無限の袋の中に本当は回帰したい。けれども、もうそれは相対的なものになってしまった。絶対的な存在なんて、ないのである。となると、道は二つ、「探す(捜索)」か「作る(創作)」のどちらかしかない。だから、「母」とは、訪ねて三千里を歩かせる存在であり、綾波として何度も再生産される存在として描かれ続けるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

が、これは男性の場合限定、なんだよなぁ。やっぱり男女でその「カンガルー的落胆」の中身は違うし、その後のアプローチの仕方も違う、と思う。おそらく、ゆがんだ我々はその二重の落胆から、「母」、絶対的存在、を手に入れようとするのは間違いないのだが、男性にとってそれは「外部」にある。対して、女性は「内部」にそれを見つけようとするのではないだろうか。もっと精神分析的に言うと、我々が求めている「絶対的な母」とは、ペニスをもった母、いわゆるファリックマザー、であって、だから男性は母を再生産し、女性は母になろうして…、難しいな。

女性のことは分からないので、男性に限って話を進めると、やっぱりその二重の落胆は、かなり大きな形で我々に作用していると思う。甘えるな、って感じだろうけど。

 

 

 

 

 

 

 

あなたがカンガルーなのは、あなたの母親のせいじゃないわよ!っていうね、ことを言ってしまえばそれまでなんだけども、でもそのゆがみの後ろにはやっぱり何かしら、大きなものというか、悲鳴みたいなものが転がっていると思うんだけどね。

「カンガルー的落胆」は、なにもオタクにだけ応用可能なわけじゃなくて、もっと大きな領域にも広げていけると思う。自分の母体が「そうであった」という事実から、間接的に「自分もそうであった」ということに気づかされることの辛さ、重さ、そこから逃げようと一つの基準(=母的存在)を求めるのは、人間の営みの中に多数見受けられるしね。

 

 

 

 

 

 

さて久々に長い考察。

非常に集中できて良いね。

カンガルーさんのおかげです。

さっさと袋から出ますね、すみません。

 


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80:20の法則 パレートめ! [そこくるりずむ]

精神分析の本だったり、経済-経営学の本を読んでいると良く出てくるのがこの、

「80:20の法則」

 

何にでも応用可能なこの形式を、説明しながらちょっと遊んでみよう。

 

 

 

 

まず、何が80で何が20なのか。

えーと、経済学の中で出てくるのは、

世界の富が100だとすると、

そのうち80を持っているのが20の人間で、

残りの20を、80の人間が分け合っている、

みたいな。

 

イタリアの経済学者、ヴィルフレド・パレートさんが発案したそうで、

「パレートの法則」なんて呼ばれてもいるらしい。

厳密には80:20ではなくて、70:30とか90:10とかにもなるらしいが、

まぁ80:20が一番ピンとくる数字なんだろう。

 

他にも、

ある企業の売り上げの80%を担っているのは、20%の売れ筋商品で、

残りの80%の商品は、合わせても20%の売り上げにしかならない、

 

やら、

 

企業のうち80の成果を上げているのは20の人間で、

残りの80人は、20程度の成果しか上げていない、

 

やら。実に多岐にわたる。

 

 

だがこれは、別にその「80」の部分が要らない、と言っている訳では全く無く、むしろ「結局は80:20になってしまう。」ということを極めて冷静に表した法則なのである。

仕事の成果のうち8割は、費やした時間の2割によって生まれたものだ。

とか。

働きアリの話も分かりやすいか。

1000匹アリが居たら、

そのうち200匹は熱心に働き、

残りの800匹は平凡な働きしかしない。

が、その中から熱心な200匹を取り出して働かせると、

今度はそのうち40匹が熱心に働くが、

残り160匹は平凡な働きしかしなくなる。

 

という風に、80%の部分も必要不可欠なんだ、ということだ。

 

 

で、この辺りまでは大体どの本でも説明は一緒。

そしてここから経済学経営学の本ならば、

「どうやって、20%の勝ち組になるか!」とか、

「どうすれば20%の需要を獲得できるか!」に話が移るし、

精神分析や文学批評の本ならば、

「患者の話のうち大事なのは20%のトラウマで、それが体の80%を支配している。残り80%の話は、その20%を隠すカモフラージュである。」だとか、

「この小説で読むべき部分はこの20%であるが、80%を読まないと、その部分は“20%になれない”。」となる。

 

ふむふむ。確かに何にしてもこの法則は応用できそうだ。

 

 

 

 

 

 

世界のあるものの総量が決まっているとすると、

20%の人間がそのうち80%を占拠して、

残り80%の人間が、20%を分け合っていると。

例えば、カネか。

 

あるいは…、女性、とか言うとまた怒られるか。

 

世界の80%の女性を、

占有しているのは20%の男性で、

 

残り20%の女性を、

80%の男性が奪い合っている…

 

 

な か な か リ ア ル だ な 。

 

 

 

ある人の話は、

20秒分の内容しか持っていないんだけども、

きちんと残り80秒分も聞かないと、

それは「話」にならない、みたいな。

 

 

 

何はともあれ、

「全体」が見えて初めて、それが「20%」だと分かるのだ。

じゃあどうしろと?

いや、

どうもすべきではない、と、パレートさんは言っている。

むずかしいもんだな(笑)。

 

 

 

 

 

ま、いいや。

と、

これが生きてくるかどうかは分からないが、

80:20に関わるような話を少し、

東北の大学に通う人とお話した。

大きく「企画」というものについて。

 

 

例えばそれが「前例のある企画」だとしよう。

それをまた一から作っていくとする。

一年ぶりであれ、半年振りであれ、だ。

その時にこの80:20が非常に意識されなければならない、という見解で、

僕と東北の彼は一致した。

 

 

企画を行おうとする場合、前例があればもちろん参考にはするのだが、

人間とはなかなか飽きっぽい生き物で、それを「変えよう」としてしまう。

そして、変えよう、変えようとする人は、その企画を「全て」変えようとする。

これが、変化ベースの人間の陥る80:20の罠である。

 

 

 

変えようという意志があるのは良いことだが、

最初からそうした変化が意識されると、

企画はあまり変わらないまま、失敗する。

変化というのは80の後の20にしか起こらない。

0、ないし1からその20が意識されると、

使われるべきでない力が、その20%に注がれてしまう。

変化20に対して、力80が使われてしまうのだ。

そして残った力20が、企画の骨子となる80を埋めることになる。

骨組みがスカスカなのは言うまでもない。

 

 

 

 

意気込んで、「さぁ、変えてやるぞ!」と企画に望む人間が陥るのは、

「80に到達できない」という現実だ。

前例が成功であれ失敗であれ、変えられるのは実はその20%程度でしかない。にもかかわらず、その20%を意識しすぎると、80%がおろそかになる。そうして、企画は毎度毎度毎年毎年、「変化20+骨組み60=80程度の出来」にしかならないのだという。

80%の出来の企画がスパイラルしていく。

どの企画についても、そんなことが多いのだそうだ。

 

だから、

骨組み80(「ほねぐみえいてぃ」と、名付けたい)をしっかりと作ってから、

変化20(「へんかとぅえんてぃ」と、名付けたい)に取り掛かるような企画の作り方をすれば、

きっと上手くいくのではないか、と、

僕たちは意気投合したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、とある大きなプロジェクトの企画局長に抜擢された。

正直、荷が重いが、上記の「骨組み80」「変化20」を試してみたくもある。

 

ただなぁ、

「退屈80(たいくつえいてぃ)」も必要だよ、とパレートさんは言っている辺り、

結局何も変わらない気もするよなぁ。

パレートさんのような相対主義、嫌いじゃないしなぁ。むしろ好きだし。

が、やる前からやる気をそがれるのもアレなので、

これから一つ、頑張ってその相対主義を打ち砕いてみたいと思う。

 

 

 

 

 

と、打ち砕こうということに80%の力を注いでしまうと…

 

嗚呼、パレートスパイラル。

 


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「生贄と義理チョコとラブメール」と「贈与と返礼と脅迫」 [そこくるりずむ]

今日は贈与と返礼について書きたいと思う。

このシステムは、なかなか、特にこの時期?面白いキーワードとなるのだ。

 

 

この贈与と返礼は、なにやら難しい言葉っぽいが、文化人類学の本なんかを読むとよくよく出てくる大前提みたいなものだ。人間が行う贈与行為は全て返礼を求めるが故の行動である、みたいな。贈与とはおおまかに、何かしらのモノなり行為なりを、誰かに対して与えること、返礼とはそれに対して何かしらのモノなり行為なりが、返ってくること、である。

文化人類学と大きく出てしまったので、それをそのまま例に使ってみようか。

 

「生贄(いけにえ)」という制度が、今も昔も行われているのはまぁ周知の事実と言っても問題ないだろう。生贄とまではいかなくとも、何かしら大切なものを神様に捧げるという図式はまだまだ世界の至る所で健在だ。人間を谷底へ捧げたり、滝から落としたり、あるいは動物でも何でも、捧げるという行為はある種日常的に行われているだろう。この生贄という行為、あるいは生贄にされるモノそれ自体こそが、いわゆる「贈与」なのである。

生贄を捧げる対象は、誰か?それはすなわち神様である。神様、と一概に言ってはいけないか、神的存在?まぁややこしいので神としておこう。我々が生贄を捧げるのは神に対して、だ。

なぜそんなことをするのか、それはすなわち返礼を求めているからに他ならない。返礼は、例えば「雨」でもいいし、「天変地異の鎮静」でもいいし、なんでもいい。生贄を捧げた人々は、彼らにとって最も切実な問題、その解決が返ってくるのを待ち望んでいるのだ。

つまり、「我々の一番大切なものを、神様、あなたにあげるから、あなたはそれ相応の報いを我々に施すべきだ。」というある種怨念めいた願いを、生贄という制度はアフォードする。「私たちはこんな素敵なことをしてあげたんだから、神様、ネ、分かってるよネ♪」みたいな、返礼に対する過剰な執着が、贈与という行為には如実に現れるわけだ。

また、「我々の一番大切なものを、」これも重要だ。生贄にされるモノは「村で一番美人の娘」であったり、「村で取れた一番大きな果物」であったりする。(村一番の美青年が生贄になる…のはなんてBL本だっけ。あったぞ、確か。)不細工な人間が生贄にされることはあまりなく、極端な老人が生贄にされる話もあまり聞かない。尊ばれるべき「美」を担う女性、ないし尊ばれるべき「富」を担う収穫物、どちらにせよ、象徴的でより大事なものを捧げることで、返礼の大きさを推し量るのだ。

 

 

 

さて、ここまで書いてきて分かる通り、「贈与」とはただの事物を与える行為ではない。「贈与」とは「返礼」を求めるための「脅迫」なのだ。

「私がこんなに大事なものをあげるんだから、あなたもちゃんとしたものを返しなさいよ!」という、これは脅迫以外の何物でもないだろう。誰かに何かを与えてしまった時点で、それは脅迫的な意味を持たざるを得ない、そんなことも言えてしまう。

 

 

 

 

 

さてではここで、ちょうど良い時期だ、バレンタインデーのチョコレートを持ち出してみよう。うん。

バレンタインデーのチョコは、実に分かりやすい、「プレゼント=贈与」である。かつては「2月14日、この日だけは女の子から男の子に告白しても良い日!」なんて言われていたそうだが、今もまだそうだろうか。それは置いておくにしても、チョコレートは間違いなく「返礼」を求めた「贈与という脅迫」に違いない。

「本命チョコ」と「義理チョコ」でみてみる。

「本命チョコ」に関しての構造は実に分かりやすい。「チョコをあげるから、あなたを下さい」という、「贈与(脅迫)-返礼」の図式である。そんな単純なものではないだろうが、突き詰めて言うと結局は「チョコ」と「あなた」の交換である。

が、これが「義理チョコ」になると少しフクザツだ。

「義理チョコ」が与えるもの、贈与するものは当たり前だがチョコレートである。しかし、そこに求められる返礼は「本命チョコ」とは全く違う。「義理チョコ」が求めるのは、「『チョコをもらえなかったことをひがむ』ことをやめること」であり、「義理の位置にとどまっておくこと」だ。「チョコをあげるから、あなた、近寄らないで。」それが、義理チョコの「贈与(脅迫)-返礼」図式である。

 

 

こんなことを書くと世の女の方々から「いや、そんなことはないわ。別に『あなた、近寄らないで。』なんて思ってないし…。」なんて返ってくることだろう(おお怖い。これも逆・贈与(脅迫)-返礼図式なのか?)。確かに、やたらめったに「近寄らないで」なんて言うつもりはないだろうし、チョコ一つにこれだけの文言を書き連ねられるほうがどうかしているかもしれない。

が、「チョコをあげなきゃあげないで気まずい。」なんて状況があるのは確かなんじゃなかろうか?あげなくてもいいチョコを女性たちはなぜあげるのか?これは、大きく制度化-システム化してしまった「バレンタインデーそのもの」が原因かもしれないなぁ。2月14日そのものが与えるなんらかの「贈与(脅迫)」に対して、女性たちが「返礼」をしている、みたいな。うーんむずかしいな。

 

そのバランスを取るために、「友チョコ」なんてのも出てきたのかもしれないし。

まぁ、義理チョコはなかなか奥が深い、という結論と共に、

贈与(脅迫)と返礼の図式が少しでも分かりやすくなれば良いだろう。

 

 

 

 

 

 

よし、もっと卑近な例を出してみる。

「メール」

これも、非常に「贈与(脅迫)-返礼」の図式を上手く表したものかもしれない。ここまで読んだ人ならもうお分かりだろう。メールも同様に「贈与」むしろ「脅迫」である。相手のケータイの画面上に表示されるのは間違いなく脅迫文だ。

「返信を下さい。」という(返礼を求める)暗示的な意味が、メール一通にもこめられてしまうのである。

 

世の中のモテる皆様方は、そのモテる時期に「何でもないようなことを聞いてくるメール」をたくさん頂いたことがあるのではないだろうか。逆に、世の中のモテない皆様方は、そのモテない時期に「何でもないようなことを聞くメール」をたくさん送ったことがあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

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件名:無題

本文:

明日の2時間目、

英語で合ってたっけ?

-----

 

 

 

みたいな。

ねー。

そんなこと、聞かなくても分かるのに。

聞かなくても分かることをわざわざ聞くこと、返信を求めること。

これはもう典型的な、「返信(返礼)を求める、メール(贈与・脅迫)である。」

痛いなぁ。

 

 

 

 

で、またねぇ、こういう時によくあるのがさ、

-----

件名:こんばんは

本文:

明日テスト、頑張ってね。

返信はいらないから。

-----

 

 

みたいな。

 

 

 

 

 

「返信はいらないから。」

 

 

 

「思いっきり、

お前返信して欲しいんだろ。」

 

 

こーゆーのをねー、書けば書くほどねー

脅迫度は増すわけだ。

メールっていうものは想像以上に重たい。

 

 

 

もう一度言う。贈与とは全て脅迫である。

 

 

いや、と言っても別にやましいメールだけにそれが適応されるわけではなく、用事があって物事を伝えるためにメールをするのも、それは返信を求めた脅迫であるし、なんとも日常的に我々は「贈与」と「返礼」を繰り返しているのだ。お歳暮なんかにしても、それは単なる物々交換以上の「保障(補償)」を意味しているだろう。

お歳暮をあげるから、会社を首にしないで、みたいな。

みんな、無視しないで、ないし、無視して、もあるだろう。

求める返礼は時と場合によって実に様々な形をとる。

同様に、その脅迫の形も様々であろう。

 

 

 

 

 

はい、ここまで書いてくると、なかなかそろそろメール一つするのも怖くなってくるわけだが。

それでもまた人間はひゅっとメールを送ってしまうわけで。

面白いなぁ、人間って。愛おしい。

 

 

生贄に始まり、チョコ、メールと来たが、うーむなんともこの男性的な目線が拭えていないのはよろしくない。もうちょっとこの「贈与(脅迫)-返礼」図式については考えてみなければいけないな。

というか、blogもこれ、立派な贈与じゃないか?

そう思うとそろそろ何もできなくなってくる今日この頃。


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解釈のサンタクロース、「しゃべる」。 [そこくるりずむ]

いつもいつも、ハッとさせられることの多い「ほぼ日」の「今日のダーリン」。

しかし今日はまた暗示的に、素敵な文章が躍っていた。

 

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今日のダーリン

「しゃべる」ってのは、なにかね?
なんなんだろうね、「しゃべる」ってことは?
昨日は、ざっと計算すると、
7時間くらいしゃべり詰めだったようです。
高倉健さんがかっこいいとか言いながら、
なんてオレはおしゃべりなんだと、思う次第です。

しかし、酒をのむ人たちも、
あれは、結局、しゃべりに行ってるみたいなものでしょ。
「ちょっとお茶でも」にしても、「しゃべる」んですよね。
ひさしぶりにともだちに会っちゃって‥‥
どうしたかと言えば、「しゃべった」わけでしょう。
親しい人といっしょの時間を過ごすにしても、
いろいろすることはあるのかもしれませんが、
中心にあるのは、「しゃべる」のようにも思えるんですね。

家庭をつくっちゃって、夫婦になっちゃうと、
「しゃべる」時間は、減った
ような気がするかもしれませんが、
実は、それなりに少なくもないんじゃないでしょうか。

いろんな「遊び」があるのですが、
それは「しゃべる」とセットになってるような気がします。
旅、スポーツ、食事、酒、その他いろいろ‥‥
無口でもくもくとそれをしていても、
ま、いいんでっすけどー、味気なくないですか。
ぼくがおしゃべりだから、そう思うのかなぁ。
とてもたくさんの人の「おたのしみ」が、
「しゃべる」なんじゃないかと思ったら、
ちょっと、いろいろいいことが考えられそうな
気がしてきました。

---- ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」2007-01-25

 

素敵だ。

さて、この文章が与えてくれる一般的な意味は、「我々が選択的に行っていると思われることでも、それは実は『しゃべる』の付属的な行為でしかないのかもしれない」といったものであろう。ある程度の物事は「しゃべる」を中心に置くことができる、という視点。それを糸井さんはポイっと放り投げる。

 

で、これを読んだ我々はそれぞれがそれぞれに解釈を行う。

・「しゃべる」を中心に置く…か。うん、新しいビジネスの予感がしてきたぞ!

・「しゃべる」を中心に置く…か。そうすると、我々はやはり言語を通してしか世界を知覚し得ないことになるかもしれない。

・「しゃべる」を中心に置く…か。じゃあ「しゃべる」ことは生物学的にも快感を伴う作用ということになるし、人間は遺伝子レベルで「しゃべる」ことを欲している、と、できるかもしれない。

・「しゃべる」を中心に置く…か。と言っても一人では「しゃべる」ことは出来ないだろうし。しゃべるためには他人が必要→他人を集める方法が必要→お茶なり旅なりスポーツなり、そんな図式が成り立つなぁ。

・「しゃべる」を中心に置く…か。ああ、色々としゃべりすぎてしまったなぁ。

・「しゃべる」を中心に置く…か。じゃあ自分はいつ「しゃべる」ことを覚えたんだろう…。

・「しゃべる」を中心に置く…か。別に何も思わないなぁ。

 

などなど。もちろん、これらの解釈は全てありえる。

つまり、解釈なんていうものは、読む人の数だけあるのだ!

 

 

 

なーんて、言うといかにも陳腐な思考で終わってしまう。

解釈のブレは重々承知の上。重要なのはそのブレの内容だ。

 

我々が、ある文章を、ある解釈に置き換えるとき、そこには確実に恣意的な転換がもたらされる。どういう風に、それを、読むか。すなわち我々は、ある文章から、自分が得たいと思ったものを、得ているのだ。むずかしいぞ。なんていうか、えーと、まず最初にきちっとした「欲しいもの(解釈)」があるんだけども、それには自分では気づいていなくて、あるもの(文章)と触れた途端に、我々はその“あるもの(文章)を通して”「欲しかったもの(解釈)」を得ている、とでも言えようか。

ちょっと、サンタクロースを持ち出してみよう。サンタクロースは望んだものを、くれる。逆に言うと、望んでいないものは、くれない。つまりそういうことである。

どういうことだ?

 

えーとだから、先ほどの糸井さんの文章を読んで、「新しいビジネスの予感がしてきたぞ!」と思った人がいたとしたら、それは「その人は『新しいビジネスの方法』を求めていた」となる。ベッドサイドの靴下の横に、「サンタさん、新しいビジネスの方法をください。」と書いた紙があるはずだ。(と同時に、その本人が「寝ている」=気づいていないことも重要である。)

同様に「言語を通じてしか…」みたいな感想を抱いた人は、「言語についての見識」が欲しかったんだろうし、他も同じように、「その文章を通じて得たかったもの」を得ているのである。「しゃべりすぎてしまったなぁ」と思った人は、きっと糸井さんにその反省の念を刺激されたのだ。お望みどおり。

逆に、「言語を通じてしか…」の人が、「ビジネスチャンス!」を得ることは絶対にない。それは当たり前だが、望んでいないから、だ。冷静に自分の解釈を分析してみると、実は自分が何をしたかったのか、少し見えてくる。

 

 

また、サンタクロースは、いるのかいないのか、それに対してよく持ち出される答えに、次のようなものがある。「サンタは、いると思った人の心の中に、いるのだ。」 あるもの(文章)も同じく、「“そういう”風に読もう」と思った人の心の中に、“それらしい”形で現れる。赤い服に白い髭で、そしてそっと解釈というプレゼントを置いて去っていくのだ。

そういう意味で、今回の「今日のダーリン」は、なんともすばらしいサンタクロースだったと言えよう。「しゃべる」という名のサンタさんは、実に様々なプレゼントを僕に置いていってくれた。ありがたや。

 

 

 

 

で、これを読んだ人にもまた、それぞれの解釈が生まれるわけで。

そんな「サンタの数珠繋ぎ」が、日々起こっていると思うと、

なんだか少し面白くなった。


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新聞の役割と課題について [そこくるりずむ]

新聞というメディアはそれ自体が語るということを自動化しているので、「新聞の役割と課題」を知るには「新聞を読む」ことが一番であるのは言うまでもない。しかし、「新聞のこれこれこういう所が…」という分析が、必ずしも分かりやすい役割と課題を示してくれるわけではないのも確か。また、あまりに大きくなりすぎているこのメディアの全体を総じて述べるのは容易ではない。なのでここでは「今、時代先端的なもの」の構造を分析し、それを新聞に当てはめることで、役割と課題を浮き彫りにさせる、という手法を取りたいと思う。

ではその「今、時代先端的なもの」を何にするか。ここでは、昨年から引き続き話題を呼んでいるソーシャルネットワーキングサイト「mixi」を取り上げたい。

 

昨年は流行語大賞も受賞したmixi。ソーシャルネットワーキングサイト(SNS)という会員制のコミュニケーションサービスで、Web上の日記やメッセージ交換などが主な利用。利用者は既に入会している登録ユーザーから招待を受けないと登録ができない完全招待制を採用しており、それが健全で安心感のあるコミュニティ形成に役立っている、とのこと。2004年2月の運営開始から、現在の利用者数は660万人(06年11月)以上。東証マザーズ上場や事件などで話題になったのは記憶に新しい。

では、なぜこれほどまでにmixiが会員数を増やすことが出来たのか、なぜこれほどまでに人々はmixiを利用してしまうのか、それを考えてみよう。理由はいくつかある。「日記を公開しコミュニケーションする楽しさ」だとか、気軽に「友達とも知り合いとも言えない関係を作れる」だとか、今までになかったツボを上手く貫いた点だ。が、別にここでは「mixi論」なんてものを確立するつもりではないので、挙げるにとどめておく。大事なのは次の一つである。mixiが成功した理由の一つかつ最も大きいもの、それは、「Webに線を引いたこと」だ。

以前までのネットの語られ方というと、双方的コミュニケーションの可能性、枠にとらわれない知の無限の広がり、とめどなく広がっていく情報の共有空間…、などなど、その「際限なく続く連続性-広域性」に終始しているものが多かった。ネットの中では今までにない自由が保障されており、またそれがWorldwideWebたる所以でもあったのだ。が、mixiはそれに敢えて「線を引いた」。すなわち、「自由であるが故に、無限に広がっているが故に、」というネットの存在意義をラディカルに批判しつつ、ココからココまで、という領域を定めることで、一定の基準を作ったのである。これが今までのネットワークサービスに無かった考え方だ。(mixiには結局線など引かれていないではないか、ないし、基準なんて作り出してはいない、などという批判ももっともであるが、利用者の大半はその線に惹かれている。)しかし、言われてみればこれは至極当たり前のことでもある。我々はインターネットで検索しようにも、「検索ワードに何を入れていいやら分からない、何も出てこない」なんてことはよくあるし、その“何か”を探すために利用しているニュースサイトやまとめページが作っているのも、同じ「領域」と「基準」だ。mixiはそれをコミュニケーションというエリアに持ち込んだのである。

 

 

さて、この「線を引く」という行為、これは新聞が行っていることの一つに他ならない。社会という無限の広がりに対して、報道と言う形での共通認識を作る傍ら、新聞社はそれぞれの「解釈」を伝えて基準を作る。また、新聞が作り出すコミュニティは一定の報道による共通理解だ。すなわち、我々が情報に対してアプローチする際の基準を担うのが、新聞の役割の一つなのである。

よく、新聞に対してなされる批判として、「新聞は真実を伝えていない。書き手の心境など聞きたくないのだ。ただ淡々と事実だけを書いておけば良い。」というものがある。テレビにしてもラジオにしても、事実のみを伝えることこそが報道のはずだ、という風潮は消えずに存在し続けている。が、そういった批判はもはや的外れではないだろうか。書くほう読むほう両方ともに人間が介在する以上、そこに何らかのフィルターが加わることは免れない。「淡々と事実だけを伝えること」は、おそらく不可能である。もちろん、だからと言ってその恣意性を遺憾なく発揮されては困るわけだが。

すなわち新聞は、「社会を判断するための基準を作る」ことと同時に、「その基準がどういったものであるかについて語る」こともしなくてはならない。何も新聞に限ったことではないが、後者が如実に現れるのは新聞を置いて他にないだろう。

インターネットを称して「玉石混合」といった表現が今ではよく見受けられる。どこに信憑性があるのか、あるいはどこに嘘があるのか。人間の手を渡れば渡るほど、情報には単純な量的爆発以上の問題が表れるのだが、その対応に関して垣間見えるものが今の新聞における課題ではないだろうか。今の新聞がその「玉」と「石」を見分けられているかどうか、それは大した問題ではないし、報道という場面に関わっている方々がその選別をきちんとしていないわけがない。しかし、「線はここに引かれていますよ。」というアナウンスがしっかりとなされていない現状があるのは確かで、それが今一番の新聞の課題ではないかと思う。

少し領域が大きすぎるのでまたmixiに戻して話を進めてみよう。mixiの課題も同じところで、「ここまでが会員ですよ。」という線引きがユーザーに知らせられていないのが問題なのである。ここまでが、というか、「会員の中には、こんな人もいますよ。」ということが、語られていないのだ。

 

線を引くと言うのは重要な行為だし、我々がそれを求めているのも確かだ。そして何度も述べているように、そこにある程度の恣意性が組み込まれるのも仕方が無い。が、その恣意性も含めた「線の存在」を我々に伝えてくれるだけの良心が、メディアのその内に組み込まれているかというと疑問符がつく。これから先さらなるメディアミックスがなされていくのは間違いないだろうが、その中で新聞が担う「線引き」の役割は今まで以上に必要とされるだろう。その時に、なぜその線でなければならないのか、その線はどういったものなのか、新聞はきちんと語らねばならない。

 

 

 

というようなことを喋る練習をしておかないと。

書くのとしゃべるのはだいぶ違う。


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女性とタバコの話。 [そこくるりずむ]

ちょっとニュースで喫煙者率というものが出たので、少し調べてみる。

JTの「全国たばこ喫煙者率調査」(04年)を見てみると、

現在(といっても04年のデータだが)の喫煙者率は、男性平均で46.9%、女性は13.2%らしい。男女合わせての数字は29.4%。なかなか…。20歳以上の男性は二人に一人がやっぱり吸っているわけだ。自分の周りを見ていても、5割とまではいかないが、確かに30%くらいはいる気がする。

 

で、まぁこれだけでは多いのか少ないのか分からないので、世界と比較したものがよく挙げられる。ということでまた探してみると、「たばこよろず情報」に行き着いた。これによると、先進国の中では日本がトップらしい。これまたデータが少し古いが、男性平均が少し他国と差をあけて多いことがよく分かる。

逆に女性の喫煙率を見ると、ちょっと驚く。他国は軒並み20%以上なのに、日本はまだ10%台。なぜだろう。日本の情操教育やら文化やらが一役買っている、そう考えていいだろうか。

 

総人口との兼ね合いで、そんなに一概には言えないだろうが、なぜ日本女性の喫煙率が不自然に少ないのか、少し気になった。

 

 

たばこの値段が関係しているのではないか、と思いついたので調べてみる

「世界のたばこ事情」(北海道新聞)によると、日本は割と安い。あくまで“世界と比べたら”だが、これが喫煙率に関係していないということはないだろう。反対に、ヨーロッパは目を疑うほど高い。イギリスは20本入りで800円!一本40円となると、おいそれとは吸えなくなるだろう。アメリカも、それなりに価格は高い。

と、ここでさっきまでのデータにあまり出てこなかった国が出てきた。ロシアだ。(「先進国」という括りに入ってないの?ロシア。)ロシアのタバコは100円程度。 それに比例してか、喫煙率は日本のそれ以上だ。安いと吸いやすくなるのは当たり前か。

各国の経済状況や、たばこ精製のコストなどにも違いがあるので鵜呑みにはすべきでないが、この状況を見る限り、日本で「喫煙率を下げるには、たばこの増税を!」という意見が出てくるのも仕方あるまい。

 

 

 

調べる前の予測では、「日本はタバコが高すぎて、日本女性の収入では買いづらいのではないだろうか。」などと考えていたが、他国の様子を見てもそんなことはないようだ。オンナノコはいろいろと忙しく、いろいろとお金がかかるので、タバコなんてものにかける余裕なんてない、そう思っていたのだが、浅かったか。

 

「たばこよろず情報」に戻ると、日本以上に“女性の喫煙率が不自然に少ない国”があった。シンガポールだ。「シンガポール」という名前を聞くだけで、「ああ、なんとなく分かる」となってしまうだろう。女性の喫煙率は驚くべき2.7%。ちょっと打ちミスっぽいので他のデータを調べてみたが、まぁ高くて10%前後といったところだろう。Wikiを見てみても、

  • シンガポール - 喫煙に寛容なアジアでは例外的にレストラン、ホテルなど屋内のほとんどが禁煙。吸殻に限らずいわゆるポイ捨てをすると高額の罰金を取られるため、事実上路上喫煙も不能。公園などに灰皿があり、ここで吸っているらしい。

    たばこを吸う場がないと、喫煙率が減るのは当たり前だ。公園だけとなると、女性が尚のこと吸いにくいのは良く分かった。

    が、日本の状況は、これとは少し違う気がする。うーむ。

     

     

    とすると、やはりフェミニズムの問題に向かってしまう。

    吸うのを良しとされなかった女性たちが、「別に吸ってもいいじゃん」という強さを獲得し始めた、ということになる。西欧(先進国)で女性の喫煙率が高いのは、女性の社会進出に伴って、ではないか。稼ぎがあれば、吸うのは自由だ。そうして、喫煙という領域に置いても男女の機会は均等になっていく。

    日本女性の喫煙率はまだ低いものの、数値自体は徐々に上がってきているというデータがある。つまり、日本の女性の喫煙率は、単に“不自然に低すぎた”だけだ、ということである。日本が“ジェンダーフリー”を遠ざけつつも、少しずつその方向にシフトしていっているのが、この喫煙率から良く分かった。

     

     

    村上龍は、「国が豊かになると、女たちはのさばりはじめる」と書いた。日本女性がのさばりはじめたかどうかは置いておいても、吸う自由を獲得し始めたのは確かだ。

     

     

     

    と、小一時間考えて、結局「女性の社会進出は進んでいるようだ」という、なんとも陳腐な答えにしか行き着くことができず、僕はタバコを吸いたくなったのであった。

     


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    バランスボールの絶妙なバランス [そこくるりずむ]

    バランスボールをした。I田君の家にいつもの三人で向かい、割と広めの間取りに羨望のまなざしを向けつつも、まず目に付いたのはその大きな青色の球体であった。

    ヨガボールだとか、フィットネスボールだとか、名前は種々ありつつも、なにやらその異様な存在感に目を奪われて存在を気に留めている人も多いと思う。


    バランスボール セーフティ 65cm ポンプ付 DB65P

    バランスボール セーフティ 65cm ポンプ付 DB65P

    • 出版社/メーカー: 秦運動具工業
    • メディア: スポーツ


    さて、これが意外と燃える。「できそうでできない、けども頑張ればできそう」という絶妙なバランス。例えば、積み上げた座布団十枚くらいの上に座り、ジャンプしつつ一枚を抜き取る、みたいな。例えば、ボール4つのジャグリングとか。例えば、トランプタワーの4段目、とか。それと同じように、「出来なきゃいけない」わけではないけれども「やりたくなる」、そんな意識を高ぶらせるものとして、バランスボールはあるような気がした。

    生まれたての子馬のように、あられもない格好でボールの上に跨ったハタチが、懸命に全身の筋肉を使いながら必死で立ち上がろうとする姿は、はっきり言ってグロテスクだろう。我ながらむさくるしい。他人の家でなにやってんだ、ともなった。(でもやめるにやめられない。)

     

    人は、なにやらそういう「ちょっとした上達」に、かなりのヨロコビを感じるわけだが、それはなぜかと言うと「そこに見合っていないだけの努力を無駄に重ねたから」なのではないだろうか。つまり、トリビアの泉の能力版?とも言えるかもしれない。人間は、出来なくても良いもの、ムダ知識ならぬ「ムダ能力」が身につくことにヨロコビを感じられる唯一の生き物である、なんてことが言えるかもしれないのだ。

     

    バランスボールになると、それは「シェイプアップ」という重大な目的を帯びてくるためにその”出来なくて良いこと”度はあまり高くならないが、ジャグリングなりトランプタワーなりをする意味ははっきり言ってないだろう。あるいは意味づけをするには、ギネスブック的なものによる価値化、ないし身近な人からの価値化をされなければならない。ムダな知識を身につけただけではあまり意味がなく、それを翌日にクラスやオフィスで話して価値化されることによって、その人は快感を覚えるわけだ。

    あるいは発表しなくても、そうした情景を「想像しながら」という姿勢だけでも快感は得られる。

     

     

    それを上手く突いたのが、テレビゲームなのではないだろうかと思う。もちろんテレビゲームにもジャンルがあるので一概には言えないが、例えばアクションなり格闘ゲームの場合はそうした「身体的な能力の無意味な方向への拡張」が顕著に現れている良い例であろう。ギネスブック的に価値化されれば高橋名人になれるわけであり、身近な人から価値化されれば「地域のヒーロー」になれるのである。

    ジャグリングにしろトランプタワーにしろ、完成/実現したものを見たときの畏敬の念はゲームに劣らないものの、そのプロセスには快感があまりない。むしろマゾヒスティックな快感があるだけである。それでは閉じた世界でしか受容され得ない。そこで、テレビゲームはそのプロセスに一時的な快感を(与える要素を)持ち込むことによって、「価値化してくれる身近な人」を増やすことに成功したのである。

    一度もダッシュをやめずにワールド8-8をクリアする能力も、波動拳と昇竜拳を使い分ける能力も、身体的ではあるがそこには生産的な活動はない。一部の「やり込み」(低レベルクリアだとか、ノーミスクリアだとか)のレベルにまで行くと、こちらもまたマゾヒスティックでもある。しかし一部ではそうした価値が崇め讃えられる。そうした受容団体も含めた集団的な消費を作り上げるだけのメディアだったからこそ、ゲームは生き残っているのではなかろうか。「出来なかったことが出来るようになることの快感」を作り出すための適度な難易度のバランスを作り出すためのツールとして、ゲームは素晴らしく的を得た娯楽である。

     

    そうすると、全てのスポーツはそんなものなんじゃないのか?と思えてくるわけだ。ゲームとスポーツの違いは何なのか。やはりスポーツ=体格、ゲーム=ゲームのセンス、のような図式になってしまうのだろうか。スポーツの世界で価値化されることが出来る人間と、出来ない人間の棲み分けとして、知の世界があったわけだが、それを打ち砕くものとしてゲームが現れたのか、分からない。

     

     

    興味本位だけでバランスボールに乗っかってみたのだが、思いのほか色んな方向へ考えが走った。スポーツとは何なのか、あるいはRPGというものとの違いや、トリビアの泉の方向性などなど、まだまだ書けそうではあるが、またの機会にしよう。I君、今度は立てるように頑張ります。


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