解釈のサンタクロース、「しゃべる」。 [そこくるりずむ] [編集]
いつもいつも、ハッとさせられることの多い「ほぼ日」の「今日のダーリン」。
しかし今日はまた暗示的に、素敵な文章が躍っていた。
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今日のダーリン
「しゃべる」ってのは、なにかね?
なんなんだろうね、「しゃべる」ってことは?
昨日は、ざっと計算すると、
7時間くらいしゃべり詰めだったようです。
高倉健さんがかっこいいとか言いながら、
なんてオレはおしゃべりなんだと、思う次第です。
しかし、酒をのむ人たちも、
あれは、結局、しゃべりに行ってるみたいなものでしょ。
「ちょっとお茶でも」にしても、「しゃべる」んですよね。
ひさしぶりにともだちに会っちゃって‥‥
どうしたかと言えば、「しゃべった」わけでしょう。
親しい人といっしょの時間を過ごすにしても、
いろいろすることはあるのかもしれませんが、
中心にあるのは、「しゃべる」のようにも思えるんですね。
家庭をつくっちゃって、夫婦になっちゃうと、
「しゃべる」時間は、減った
ような気がするかもしれませんが、
実は、それなりに少なくもないんじゃないでしょうか。
いろんな「遊び」があるのですが、
それは「しゃべる」とセットになってるような気がします。
旅、スポーツ、食事、酒、その他いろいろ‥‥
無口でもくもくとそれをしていても、
ま、いいんでっすけどー、味気なくないですか。
ぼくがおしゃべりだから、そう思うのかなぁ。
とてもたくさんの人の「おたのしみ」が、
「しゃべる」なんじゃないかと思ったら、
ちょっと、いろいろいいことが考えられそうな
気がしてきました。
---- ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」2007-01-25
素敵だ。
さて、この文章が与えてくれる一般的な意味は、「我々が選択的に行っていると思われることでも、それは実は『しゃべる』の付属的な行為でしかないのかもしれない」といったものであろう。ある程度の物事は「しゃべる」を中心に置くことができる、という視点。それを糸井さんはポイっと放り投げる。
で、これを読んだ我々はそれぞれがそれぞれに解釈を行う。
・「しゃべる」を中心に置く…か。うん、新しいビジネスの予感がしてきたぞ!
・「しゃべる」を中心に置く…か。そうすると、我々はやはり言語を通してしか世界を知覚し得ないことになるかもしれない。
・「しゃべる」を中心に置く…か。じゃあ「しゃべる」ことは生物学的にも快感を伴う作用ということになるし、人間は遺伝子レベルで「しゃべる」ことを欲している、と、できるかもしれない。
・「しゃべる」を中心に置く…か。と言っても一人では「しゃべる」ことは出来ないだろうし。しゃべるためには他人が必要→他人を集める方法が必要→お茶なり旅なりスポーツなり、そんな図式が成り立つなぁ。
・「しゃべる」を中心に置く…か。ああ、色々としゃべりすぎてしまったなぁ。
・「しゃべる」を中心に置く…か。じゃあ自分はいつ「しゃべる」ことを覚えたんだろう…。
・「しゃべる」を中心に置く…か。別に何も思わないなぁ。
などなど。もちろん、これらの解釈は全てありえる。
つまり、解釈なんていうものは、読む人の数だけあるのだ!
なーんて、言うといかにも陳腐な思考で終わってしまう。
解釈のブレは重々承知の上。重要なのはそのブレの内容だ。
我々が、ある文章を、ある解釈に置き換えるとき、そこには確実に恣意的な転換がもたらされる。どういう風に、それを、読むか。すなわち我々は、ある文章から、自分が得たいと思ったものを、得ているのだ。むずかしいぞ。なんていうか、えーと、まず最初にきちっとした「欲しいもの(解釈)」があるんだけども、それには自分では気づいていなくて、あるもの(文章)と触れた途端に、我々はその“あるもの(文章)を通して”「欲しかったもの(解釈)」を得ている、とでも言えようか。
ちょっと、サンタクロースを持ち出してみよう。サンタクロースは望んだものを、くれる。逆に言うと、望んでいないものは、くれない。つまりそういうことである。
どういうことだ?
えーとだから、先ほどの糸井さんの文章を読んで、「新しいビジネスの予感がしてきたぞ!」と思った人がいたとしたら、それは「その人は『新しいビジネスの方法』を求めていた」となる。ベッドサイドの靴下の横に、「サンタさん、新しいビジネスの方法をください。」と書いた紙があるはずだ。(と同時に、その本人が「寝ている」=気づいていないことも重要である。)
同様に「言語を通じてしか…」みたいな感想を抱いた人は、「言語についての見識」が欲しかったんだろうし、他も同じように、「その文章を通じて得たかったもの」を得ているのである。「しゃべりすぎてしまったなぁ」と思った人は、きっと糸井さんにその反省の念を刺激されたのだ。お望みどおり。
逆に、「言語を通じてしか…」の人が、「ビジネスチャンス!」を得ることは絶対にない。それは当たり前だが、望んでいないから、だ。冷静に自分の解釈を分析してみると、実は自分が何をしたかったのか、少し見えてくる。
また、サンタクロースは、いるのかいないのか、それに対してよく持ち出される答えに、次のようなものがある。「サンタは、いると思った人の心の中に、いるのだ。」 あるもの(文章)も同じく、「“そういう”風に読もう」と思った人の心の中に、“それらしい”形で現れる。赤い服に白い髭で、そしてそっと解釈というプレゼントを置いて去っていくのだ。
そういう意味で、今回の「今日のダーリン」は、なんともすばらしいサンタクロースだったと言えよう。「しゃべる」という名のサンタさんは、実に様々なプレゼントを僕に置いていってくれた。ありがたや。
で、これを読んだ人にもまた、それぞれの解釈が生まれるわけで。
そんな「サンタの数珠繋ぎ」が、日々起こっていると思うと、
なんだか少し面白くなった。
そこくるり3
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