「生贄と義理チョコとラブメール」と「贈与と返礼と脅迫」 [そこくるりずむ]
今日は贈与と返礼について書きたいと思う。
このシステムは、なかなか、特にこの時期?面白いキーワードとなるのだ。
この贈与と返礼は、なにやら難しい言葉っぽいが、文化人類学の本なんかを読むとよくよく出てくる大前提みたいなものだ。人間が行う贈与行為は全て返礼を求めるが故の行動である、みたいな。贈与とはおおまかに、何かしらのモノなり行為なりを、誰かに対して与えること、返礼とはそれに対して何かしらのモノなり行為なりが、返ってくること、である。
文化人類学と大きく出てしまったので、それをそのまま例に使ってみようか。
「生贄(いけにえ)」という制度が、今も昔も行われているのはまぁ周知の事実と言っても問題ないだろう。生贄とまではいかなくとも、何かしら大切なものを神様に捧げるという図式はまだまだ世界の至る所で健在だ。人間を谷底へ捧げたり、滝から落としたり、あるいは動物でも何でも、捧げるという行為はある種日常的に行われているだろう。この生贄という行為、あるいは生贄にされるモノそれ自体こそが、いわゆる「贈与」なのである。
生贄を捧げる対象は、誰か?それはすなわち神様である。神様、と一概に言ってはいけないか、神的存在?まぁややこしいので神としておこう。我々が生贄を捧げるのは神に対して、だ。
なぜそんなことをするのか、それはすなわち返礼を求めているからに他ならない。返礼は、例えば「雨」でもいいし、「天変地異の鎮静」でもいいし、なんでもいい。生贄を捧げた人々は、彼らにとって最も切実な問題、その解決が返ってくるのを待ち望んでいるのだ。
つまり、「我々の一番大切なものを、神様、あなたにあげるから、あなたはそれ相応の報いを我々に施すべきだ。」というある種怨念めいた願いを、生贄という制度はアフォードする。「私たちはこんな素敵なことをしてあげたんだから、神様、ネ、分かってるよネ♪」みたいな、返礼に対する過剰な執着が、贈与という行為には如実に現れるわけだ。
また、「我々の一番大切なものを、」これも重要だ。生贄にされるモノは「村で一番美人の娘」であったり、「村で取れた一番大きな果物」であったりする。(村一番の美青年が生贄になる…のはなんてBL本だっけ。あったぞ、確か。)不細工な人間が生贄にされることはあまりなく、極端な老人が生贄にされる話もあまり聞かない。尊ばれるべき「美」を担う女性、ないし尊ばれるべき「富」を担う収穫物、どちらにせよ、象徴的でより大事なものを捧げることで、返礼の大きさを推し量るのだ。
さて、ここまで書いてきて分かる通り、「贈与」とはただの事物を与える行為ではない。「贈与」とは「返礼」を求めるための「脅迫」なのだ。
「私がこんなに大事なものをあげるんだから、あなたもちゃんとしたものを返しなさいよ!」という、これは脅迫以外の何物でもないだろう。誰かに何かを与えてしまった時点で、それは脅迫的な意味を持たざるを得ない、そんなことも言えてしまう。
さてではここで、ちょうど良い時期だ、バレンタインデーのチョコレートを持ち出してみよう。うん。
バレンタインデーのチョコは、実に分かりやすい、「プレゼント=贈与」である。かつては「2月14日、この日だけは女の子から男の子に告白しても良い日!」なんて言われていたそうだが、今もまだそうだろうか。それは置いておくにしても、チョコレートは間違いなく「返礼」を求めた「贈与という脅迫」に違いない。
「本命チョコ」と「義理チョコ」でみてみる。
「本命チョコ」に関しての構造は実に分かりやすい。「チョコをあげるから、あなたを下さい」という、「贈与(脅迫)-返礼」の図式である。そんな単純なものではないだろうが、突き詰めて言うと結局は「チョコ」と「あなた」の交換である。
が、これが「義理チョコ」になると少しフクザツだ。
「義理チョコ」が与えるもの、贈与するものは当たり前だがチョコレートである。しかし、そこに求められる返礼は「本命チョコ」とは全く違う。「義理チョコ」が求めるのは、「『チョコをもらえなかったことをひがむ』ことをやめること」であり、「義理の位置にとどまっておくこと」だ。「チョコをあげるから、あなた、近寄らないで。」それが、義理チョコの「贈与(脅迫)-返礼」図式である。
こんなことを書くと世の女の方々から「いや、そんなことはないわ。別に『あなた、近寄らないで。』なんて思ってないし…。」なんて返ってくることだろう(おお怖い。これも逆・贈与(脅迫)-返礼図式なのか?)。確かに、やたらめったに「近寄らないで」なんて言うつもりはないだろうし、チョコ一つにこれだけの文言を書き連ねられるほうがどうかしているかもしれない。
が、「チョコをあげなきゃあげないで気まずい。」なんて状況があるのは確かなんじゃなかろうか?あげなくてもいいチョコを女性たちはなぜあげるのか?これは、大きく制度化-システム化してしまった「バレンタインデーそのもの」が原因かもしれないなぁ。2月14日そのものが与えるなんらかの「贈与(脅迫)」に対して、女性たちが「返礼」をしている、みたいな。うーんむずかしいな。
そのバランスを取るために、「友チョコ」なんてのも出てきたのかもしれないし。
まぁ、義理チョコはなかなか奥が深い、という結論と共に、
贈与(脅迫)と返礼の図式が少しでも分かりやすくなれば良いだろう。
よし、もっと卑近な例を出してみる。
「メール」
これも、非常に「贈与(脅迫)-返礼」の図式を上手く表したものかもしれない。ここまで読んだ人ならもうお分かりだろう。メールも同様に「贈与」むしろ「脅迫」である。相手のケータイの画面上に表示されるのは間違いなく脅迫文だ。
「返信を下さい。」という(返礼を求める)暗示的な意味が、メール一通にもこめられてしまうのである。
世の中のモテる皆様方は、そのモテる時期に「何でもないようなことを聞いてくるメール」をたくさん頂いたことがあるのではないだろうか。逆に、世の中のモテない皆様方は、そのモテない時期に「何でもないようなことを聞くメール」をたくさん送ったことがあるのではないだろうか。
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件名:無題
本文:
明日の2時間目、
英語で合ってたっけ?
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みたいな。
ねー。
そんなこと、聞かなくても分かるのに。
聞かなくても分かることをわざわざ聞くこと、返信を求めること。
これはもう典型的な、「返信(返礼)を求める、メール(贈与・脅迫)である。」
痛いなぁ。
で、またねぇ、こういう時によくあるのがさ、
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件名:こんばんは
本文:
明日テスト、頑張ってね。
返信はいらないから。
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みたいな。
「返信はいらないから。」
「思いっきり、
お前返信して欲しいんだろ。」
こーゆーのをねー、書けば書くほどねー
脅迫度は増すわけだ。
メールっていうものは想像以上に重たい。
もう一度言う。贈与とは全て脅迫である。
いや、と言っても別にやましいメールだけにそれが適応されるわけではなく、用事があって物事を伝えるためにメールをするのも、それは返信を求めた脅迫であるし、なんとも日常的に我々は「贈与」と「返礼」を繰り返しているのだ。お歳暮なんかにしても、それは単なる物々交換以上の「保障(補償)」を意味しているだろう。
お歳暮をあげるから、会社を首にしないで、みたいな。
みんな、無視しないで、ないし、無視して、もあるだろう。
求める返礼は時と場合によって実に様々な形をとる。
同様に、その脅迫の形も様々であろう。
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はい、ここまで書いてくると、なかなかそろそろメール一つするのも怖くなってくるわけだが。
それでもまた人間はひゅっとメールを送ってしまうわけで。
面白いなぁ、人間って。愛おしい。
生贄に始まり、チョコ、メールと来たが、うーむなんともこの男性的な目線が拭えていないのはよろしくない。もうちょっとこの「贈与(脅迫)-返礼」図式については考えてみなければいけないな。
というか、blogもこれ、立派な贈与じゃないか?
そう思うとそろそろ何もできなくなってくる今日この頃。
メールのくだりには思い当たる節がありまくりです。
…ほんと、人間って面倒くさい(苦笑)
詳細は、また会った時にでも。
ブログのデザインの狙った感じ(ピンクチェックにいちごって…!)が逆に素敵ですねv
by nemo (2007-02-03 05:04)
去年の3/14に
「チョコあげたんだからなんか返しに来なさいよ!」
と、電話が来ました。
本当に贈与=脅迫だよね。
by ゆう (2007-02-03 09:19)
>>nemoさん
そうですかありまくりですか。
面倒…、うーむ。
詳細には非常に興味があるので聞かせてください。
デザインへの素敵な「返礼」ありがとうございます。
>>ゆうさん
怖い世の中になりましたね。
でも、ゆうさんの場合は、
本当に脅迫なんじゃ…(笑
電話が来たのは夜中でしたか?(゚Д゚)
非常に興味があるので聞かせてください。
by nasujirou (2007-02-05 00:43)