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カンガルー的落胆 [そこくるりずむ]

カンガルーのお話。

 

カンガルーっていうのは、なんていうか、有袋類で、お腹の中で赤ちゃんを育てるのが主なイメージ。カンガルーボクシングも有名で、パンチやらキックやらの威力が強烈なのは、まぁまぁよく知られている事実だろう。あとオーストラリア、そのラベルは簡単にはがせない。ピョンピョン飛び跳ねる姿、茶肌色の毛並み、などなど、

あと、カンガルーの名づけには面白いエピソードがある。キャプテン・クック船長が、原住民のアボリジニーに「あの動物は何という名前だ?」とたずねたら、返ってきた言葉が「カンガルー」だった、のが名前の由来らしい。その「カンガルー」は、実は現地語で「私は知らない」という意味だったのだが、クック船長はそれを名前だと思い、そしてそれが広まった、っていう説がある。いわゆる言語的誤解が生んだ新しい価値の産物、があの動物だということらしい。普通に「カンガルー」と呼ばれていた、という説もあるらしいけども。

で、ここから、同じ言語空間内でないと名づけは成功しないそのソシュール的な方向へも話はもっていけそうだけども、今日はそっちじゃなくて、有袋類と母親の話、をちょっとしたい。

 

 

 

カンガルーの出産と、袋で育てるまでの順を引用。

 

カンガルーはメスのおなかに袋があり、その中で子供を育てる有袋類の一種としてよく知られています。

カンガルーは一年中発情期で雌はいつでも妊娠しています。有袋類の胎盤は原始的で胎児を長く育てる事ができないので、卵の栄養分を使い果 たすと、妊娠後、数週間で(種類によっても異なるが、約4~6週間)未熟な状態の胎児を産み落とします。マッチ箱程度で毛も生えてなく、目も見えない、耳の穴もあいていない赤ちゃんは、母親がおなかから袋までの道のりをなめた匂いを頼りにして這いのぼり育児袋に入ります。赤ちゃんの手はとっても発達しているのです。そこで、袋に入った赤ちゃんは「コレだ!」と決めた一つの乳首にすいつきます。その為、離乳が近い子供と 産まれたばかりの子供が同時に袋の中に入っていても乳首を取り合うことはありません。乳は子供がすうのではなく、母親が筋肉を動かして規則的に送り込みます。ある程度大きくなると、乳首から口をはずして袋から顔を出すようになります。子供が袋から出て生活をするのは 、これまた種類にもよって異なりますが早いもので7~8ヶ月後、遅いものだと18ヶ月後です。

http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30068/animal/kangaroo.html

らしい。

で、袋の中である程度一人前になるまで、赤ちゃんは育つわけだ。そもそも、生まれてすぐの赤ちゃんが、匂いを頼りに袋の中へと登る、というのは驚きで、目も見えないのによくアクセスできるな、というのが素直な感想でもある。生きるために、袋の中へ。出戻り、じゃないけれども、なんだろう、ヤドカリがより大きな家へと引越しをするよいうに、生まれた時から子宮→袋という引越しを余儀なくされているカンガルーは、なかなかつらいものがある。

 

で、ぬくぬくと袋の中で彼らは育つわけだけれども、彼らはその最中、どのくらい「母親」を意識しているんだろうか、という疑問に行き着いた。母親の中に、いる、んだけども、それを実感するのは、外に出て初めて、のはずで、つまり生まれてから意識が芽生える(目が見える)ようになるまで、しっかりと「母」の中に居るというのは、どんな体験なんだろうと、ちょっと気になったのだ。いやまぁ、カンガルーのことだから、人間さんはほっといてくれよー、という感じだろうが、そこはおせっかいに、いくのだ。

そしてどうやって、父を認識するのか、その過程も非常に面白いのではないか、と思った。

 

 

 

 

カンガルーは、生まれて、袋に入って、目が見えるようになって、で、袋から外へとちょこんと顔を出すようになる。その時初めて、外を見るわけで、上向きに、そう下から、母親というものを見る。けれども、それは何ていうか、中からの目線での他者認識であって、袋の中にいる限りにおいては、それはどこまでも「母」で、決して「カンガルー」ではない。つまり自分もまだ、「カンガルー」では、ないのだ。

難しいな。

 

カンガルーがどれだけカンガルーをカンガルーとして意識しているかどうかは分からないが、それはちょっと置いといて、アクロバティックに進めると、つまり、カンガルーの赤ちゃんが最初に見る「カンガルー」は、父親、ないし、他の「カンガルー」、なのである。

母親よりも先に、別のカンガルーをカンガルーとして認識するわけだ。これが、面白い。母親もカンガルーなのに。その時点で母親とは、母親らしい外部、でしかなく、袋を出て初めて、「カンガルー」"だった"と気づく、のである。

 

 

 

 

 

人間の場合は、まぁ家族構成や生み方や場所時間方法色んなものに影響されはするものの、大体、子供に意識が芽生える(目が見える)頃にはもう、母親というのは「対峙する対象」として近しいものになっている。触れるし、そして見える。この見える、というのが決定的な違いで、つまりそれを形として、有限なものとして把握できる、ということだ。

袋の中だと、もちろんそれは有限なわけだけども、自分が入っている空間、視界に収まらないものは、無限である。つまり母は無限の存在、なわけだ、カンガルーの赤ちゃんにとって。

 

 

で、人間の場合は最初に対峙する対象=母、が基準となって、それ以降の「人間」という認識は始まっていく。つまり「母親きっかけ」で、人間は処理されていく、わけだ。母親から生まれた自分は、母親と同じものだ、という自己承認と、そして母親と同じようなもの=自分とも同じようなもの、すなわち人間というものの限界をそこに形作っていく。

 

が、カンガルーの場合、「母」は処理される。父親、ないし他のカンガルーと同じもの"であった"という、過去形での処理を、外に出た孤高のカンガルーキッズは行うわけである。なーんだ、同じだったのか、と。今まで無限であると感じていた母親が有限であることに気づき、母は基準ではなく、比較対象の一つの結果、になるわけである。そして、その母親と同じである自分、というものを認識して、自分もカンガルーだったんだ、ということにようやく、気づく。そうやって、自分を承認するわけである。

 

 

母親を基準に判断をしていく人間と、

外部を基準に判断をしていくカンガルー。

なかなか面白い対比なんじゃないかと思う。

 

 

もう少しいくと、カンガルーはそうやって、「がっかり」しているんじゃなかろうか。いや、カンガルーだからそんなことは考えないんだろうけども。なーんだ母親は有限だったんだ、と、母親も同じ「カンガルー」だったんだ、と。そして自分も同じカンガルーだったんだ、無限じゃないんだ、と理解し、そして落胆しているんじゃないかと、思うわけである。

 

これを僕は「カンガルー的落胆」と呼びたい。

 

 

 

 

このカンガルー的落胆、が、

人間にも応用可能な素敵な要素なんじゃないかと、最近考える節があるのだ。

カンガルーは決して、そんなこと微塵も考えてないだろうし、落胆なんてしてないんだろうけど。

そこがまた、いいよね。

 

 

 

 

 

 

 

つまり、そういった、「なーんだ、そうだったんだ。」と、そして「自分も、そうだったんだ。」という二重の落胆、こそが、人間の「ねじれ」を紐解くキーワードなんじゃないかと思う。一歩外に出て見ると、今まで自分が居た場所というのが、実は外と同じもので、みたいな。こう書くとちょっと浅すぎる気がするな。まぁでもそれが一番分かりやすいか。つまり、自分の母は「どこにでもあるものだった」という落胆と、そして自分も「どこにでもあるものから生まれたどこにでもあるもの」でしかないという落胆、その二つによって、ゆがみが生じるのではないか、ということである。

それに気づかなければ、つまり袋から外に出なければ、それは見えてこない。

ずっと、無限(と思われる)袋の中で対象を比較している限り、それは幸せで、カンガルー的落胆も決して訪れなくて。けれども、一度外に出て見ると、見えてくるのは有限な母親と有限な自分。比較対象として見てきたものものと同列に、自分も比較されうるという立場に、晒されるわけである。絶対的な存在が、一気に相対デビューする。その衝撃に耐えられるか耐えられないか、が、ゆがむかゆがまないか、にそのままあてはまるんじゃなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

そうやって、自分の存在が相対的なフィールドに還元された時、耐えられなかった人はいくつかの選択肢から一つを選び取らねばならない。

・自分が絶対的になろうと努力すること。

・絶対的な存在へと回帰しようとすること。

他にもあるだろうが、今はこの二つの対比だけでいいか。言い換えれば、修行・創作?そのどちらかを行うことが、ねじれと付き合って生きていくための方法なのである。修行は、それはそれで一つの方法だが、修行というだけあって道は厳しい。悟りを開く、まで、ゆがみとの格闘は続く。ここでは後者の「創作(捜索)」に注目しよう。

 

 

「絶対的な存在へと回帰しようとすること。」もうこれは、母への回帰、なんてあっさり言ってしまって問題ない、と思う。もうエヴァンゲリオンを始め、挙げ始めたらきりが無いくらいにそういったモチーフは描きつくされている。ゆがんでしまった人たちは、絶対的な存在、無限の袋の中に本当は回帰したい。けれども、もうそれは相対的なものになってしまった。絶対的な存在なんて、ないのである。となると、道は二つ、「探す(捜索)」か「作る(創作)」のどちらかしかない。だから、「母」とは、訪ねて三千里を歩かせる存在であり、綾波として何度も再生産される存在として描かれ続けるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

が、これは男性の場合限定、なんだよなぁ。やっぱり男女でその「カンガルー的落胆」の中身は違うし、その後のアプローチの仕方も違う、と思う。おそらく、ゆがんだ我々はその二重の落胆から、「母」、絶対的存在、を手に入れようとするのは間違いないのだが、男性にとってそれは「外部」にある。対して、女性は「内部」にそれを見つけようとするのではないだろうか。もっと精神分析的に言うと、我々が求めている「絶対的な母」とは、ペニスをもった母、いわゆるファリックマザー、であって、だから男性は母を再生産し、女性は母になろうして…、難しいな。

女性のことは分からないので、男性に限って話を進めると、やっぱりその二重の落胆は、かなり大きな形で我々に作用していると思う。甘えるな、って感じだろうけど。

 

 

 

 

 

 

 

あなたがカンガルーなのは、あなたの母親のせいじゃないわよ!っていうね、ことを言ってしまえばそれまでなんだけども、でもそのゆがみの後ろにはやっぱり何かしら、大きなものというか、悲鳴みたいなものが転がっていると思うんだけどね。

「カンガルー的落胆」は、なにもオタクにだけ応用可能なわけじゃなくて、もっと大きな領域にも広げていけると思う。自分の母体が「そうであった」という事実から、間接的に「自分もそうであった」ということに気づかされることの辛さ、重さ、そこから逃げようと一つの基準(=母的存在)を求めるのは、人間の営みの中に多数見受けられるしね。

 

 

 

 

 

 

さて久々に長い考察。

非常に集中できて良いね。

カンガルーさんのおかげです。

さっさと袋から出ますね、すみません。

 


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