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Mr.Children『NOT FOUND』に見る普遍的マザーコンプレックス [音楽]

究極的なマザーコンプレックスとの戦いを歌った、Mr.Childrenの『NOT FOUND』を、今回は分析してみたい。

というかただ“深読み”してみたらどうなるか、というものなのだが。

『NOT FOUND』は、「何」が見つからない、と嘆いているのだろう。


NOT FOUND

 NOT FOUND

  •  アーティスト: Mr.Children, 桜井和寿, 小林武史
  •  出版社/メーカー: トイズファクトリー
  •  発売日: 2000/08/09
  •  メディア: CD

 


さてまず、

「男性が女性に対して求めるのは、普遍的に『母性』でしかない」

という仮説を立てたい。

男性が好きになるのは、相手の「女性そのもの」ではなくて、相手の「女性の中にある母性」なのだ、ということだ。その母性っていうのは別に「自分の母親に似ている」なんて単純なものではなく、もっと普遍的なレベルでの大きな「母性」である。まぁ、なんとなーくイメージで捉えられればいいか。

「そんなこと言ったって、『その人の中の母性』を好きになるのも、『その人』を好きになるのも、一緒じゃない?」 全くその通りである。が、その通りではないのだ。そろそろミスチル様にご登場いただこう。

 

 

まず歌詞の最初。

(こういった引用方法なら大丈夫、だよ、ね? JASRACさん)

 

  僕はつい 見えもしないものに 頼って 逃げる

  君はすぐ 形で示して 欲しいと ごねる

 

この、「見えもしないもの」と「形で示して欲しい(もの)」とは何なのだろうか。

これはすなわち、「その女性特有の魅力」である。「その女性でなければならない理由」とでも言い換えられようか。

「僕」は相手の女性に対して「母性」を求めているにも関わらず、それを自分自身に対しても隠すように(重要)無意識に、「見えもしないもの」に頼って、「好きだよ」なんて言ってしまう。

「君」は、それを敏感に感じ取って「形で示して欲しい」とごねる。私の魅力はどこにあるのか。「あなた、私のどこが好きなの?」と、聞く。もちろん、答えられるはずはない。悲しいかな、男性はその「母性」のみに惹かれ、「どこが好き」かなんて聞かれても答えられないのだ。

 

「どこが好き?」に対する答えには何があるだろうか。

「全部」だとか、「笑顔」だとか、「優しいところ」だとか、「おっぱい」でもいいだろうか、ダメか。ジジェクの『斜めから読む』という本にも似たようなことが書いてあったが、女性の魅力を箇条書きのように挙げられる人間は、病的ナルシストだけだそうだ。つまり、その中で重要なのは、「それら言語化できる『魅力のパーツ』は、ほとんどが表層的なものでしかない」ということである。

 

歌詞を追い進めてみよう。

 

  矛盾しあった幾つもの事が 正しさを 主張しているよ

  愛するって奥が深いんだなぁ

  ああ何処まで行けば 解りあえるのだろう?

  歌や詩になれない この感情と苦悩

  君に触れていたい 痛みすら伴い

  歯痒くとも 切なくとも 微笑みを 微笑みを

 

「愛するって奥が深いんだなぁ」ってのは、ある種あきらめに似た「ああ、こんなに浅いんだ。」という感想を皮肉的に表したものであろう。すなわち男性は「誰を愛しても、母性しか愛し得ない」ということだ。

で、サビに入る。いくら「その女性の魅力」「その女性でなければならない理由」を特別なものにしようとしても、「歌や詩」にすることは出来ず、思い悩む。結局男性が「母性以外のその女性の魅力」を確認する手段は「触れる」ことでしか不可能だということになるわけだ。

「歯痒くとも、切なくとも」我々はその「微笑み」という“極めて表層的なもの”からしか、「その女性でなければならない理由」なんてものを見出すことはできないのである。

 

よしじゃあそのまま2番の歌詞にもいってみよう。

 

  愛という 素敵な嘘で 騙して 欲しい

 

ここでいう「愛という素敵な嘘」は、もうお分かりだろう、何度も出てきている「その女性特有の魅力」である。そう、それは「嘘」なのだ。それを以て「騙して」くれることで、我々男性は「母性以外にも、君には魅力があるじゃないか!」と“錯覚”できるのである。なんとも「素敵な嘘」だ。

 

  自分だって思ってた人格(ひと)が また違う 顔を見せるよ

  ねぇ それって 君のせいかなぁ

 

紛れも無く、「君のせい」である。

「自分だって思ってた人格」および「また違う顔」は、

「母性を求てしまう自己」 と 「母性以外の魅力を探求する自己」

の二つで、それらがスイッチング、オンとオフで切り替わるようにくるりくるりと回っている、その状態が苦しいのだ。これって恋?

歌詞に戻る。

 

  あとどのくらいすれば 忘れられんのだろう?

  過去の自分に向けた この後悔と憎悪

  君に触れていたい 優しい胸の上で

  あの覚束ない 子守唄を もう一度 もう一度

 

ここにも現れてくるこの“絶対的矛盾”。もう、いいね、これ。

つまりその女性の魅力が、「特有のもの」なのか「普遍的な母性」なのか、もう分からないままに、身を委ねるしかないこの状況。「君に触れていたいけども、その時に触れるやさしい胸や、聞こえる子守唄は母性そのもので、でもそれは君の声で…」みたいな、ね。そうした揺れこそが男性の求めるものなのである。たぶん。

 

歌詞もそろそろラストスパート

 

  昨日探し当てた場所に 今日もジャンプしてみるけど

  なぜか NOT FOUND 今日は NOT FOUND

 

しつこいようだが何度も言っておこう、「昨日探し当てた場所」は、「その女性でなければならない理由を見つけたポイント」である。もちろん、それは「愛という素敵な嘘」によって「騙され」て得た“錯覚”でしかないのだが。だから、そんな錯覚は再び見つかるはずも無く、「NOT FOUND」となり続けるのである。

 

  ジェットコースターみたいに 浮き沈み

  ああ何処まで行けば 辿り着けるのだろう?

  目の前に積まれた この絶望と希望

  君に触れていたい 痛みすら伴い

  歯痒くとも 切なくとも 微笑みを 微笑みを

  もう一度 微笑みを

 

そろそろ、いいか。

つまり我々が「見つからない、見つからない」と嘆いているのは、

「その女性でなければならない理由」なのだ。

それがいつまでたっても『NOT FOUND』なのである。

ここに、「男性は全てマザコンである」なんて言説が説得力を持つ原因が如実に現れる。男性は女性に対して「母性」を求めているのだ。だが、「母性だけを求めている」のなら、「その女性でなければならない理由」なんてのは必要ないことになる。

男性がよく「君じゃなきゃダメなんだ!」なんて台詞を劇中で言っているが、

それが極めて胡散臭く感じられるのはこのためである。

別に「君じゃなくても良い。」のだ。

だが、それを隠そうと(自分の本当の欲望に気づかないように)、男性は必死で「形で示そう」とする。その行為が、すなわち『NOT FOUND』と嘆く行為自体が、「その女性の魅力」に順ずるのではないかと、僕は思う。

母の視点から逃れようと必死になること、それが一つの愛情表現なのだ。

中村うさぎの段に書いたが、セックスのとき男性が女性に“ガン見”されるとダメになってしまう、というのは、その目線がやはり母のものであるからに他ならない。母の視線を浴びた途端に我々は、「母と交わりたい」という自分の欲望に気付いて怖気づいてしまうのである。この辺はちょっと難しいな。

 

 

 

まぁ、最後に一つだけ、歌詞が、メロディが、というよりも、

この曲を歌っているのが

「Mr.Children」

だという事実、ね、これが一番運命的と言うか。

「こども」という名前を持つグループが、「母」を歌っているのだ。

そりゃ、そうなるだろう。

他にもおそらくミスチルからは「母」に対する分析が出来ると思う。

ちょっと探してみようか。

 

 

 


おまけ

 

女性の場合を考えてみよう。

女性は「あなたじゃなきゃ、ダメなの…」なんて、

うん、言うね。

これは、胡散臭く思える…か…な…。

どうもその辺があいまいで難しく感じられる。

 

男が「君じゃなきゃ、ダメなんだ!」と言うのが胡散臭く感じられるのは、

僕が男だから、に他ならないのかもしれないし。

もし僕が女だったら、「あなたじゃなきゃ、だめなの…」なんて言う女に対して、

「はいはい、分かった分かった。」と、

冷めた目で見ている絵も容易に想像できる。

女の人から見たら、「あなたじゃなきゃ、ダメなの…」女は、やっぱり胡散臭い存在だよね?たぶんそうだろう。となると、女性も何かしら男性に対して「普遍的なもの」を求めていることになるかもしれない。

でもそれは絶対「父性」じゃないやね。

うーん。

女性の歌でもちょっと分析してみないといけないな。

 


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コメント 2

K山

偶然にもレポートでJ-POP歌詞分析をしたばかりです。
おそらく昨今の桜井は、「母性」と「その人自身」の揺らぎを経て、最終的に「その人自身」へのコミットへと帰結することを推奨しています。
「母性」追求はエディコンっぽい嗜癖状態の匂いがしますが、『しるし』などに見られる様な「他者の日常的振る舞いの観察、思いやり」は、関係性を取り結ばんとする、「その人自身」を志向している気がします。
ところで疑問なんですが、「男性が女性に対して求めるのは、普遍的に『母性』でしかない」ことは揺らがざる前提になるのでしょうか。
by K山 (2007-02-10 08:23) 

nasujirou

>>K山くん

まず、「男性が…『母性』でしかない」ってのは、
前提になるかもしれないし、ならないかもしれない。
どっちでもいいんじゃないかな。

ただ、前提にして読むと、これを読んでる5分くらいは楽しい…はず。
書いてる僕自身はめっちゃ楽しかったしね。
だから、「仮説」なんてものは、立てるだけ立てて、
消費してしまえば、いいんだと思うよ。




で、自己への回帰について。
「揺らぎを経て」ってのが、重要だよね。

つまり、我々は「他者を通じてしか、自分を好きになれない」。

ちょっと変な例えになるけども、
鏡で、自分の姿を見ながらオナニーが出来る?
おそらくそれが出来る男性は(女性はちょっと微妙)あまりいないと思う。
出来る人は、この記事の最初のほうに書いた「病的ナルシスト」だろうね。

だから、自分を確認する際に必要なのが他者であり、
その最たるものが「母性」、あるいは「まなざし」なんじゃないかと思うよ。
他者なしに「その人自身」を志向する(オナニーする)のは不可能で、
男性にとって最大の他者は「母なる超自我」で…

みたいなことが、
フロイトとかラカンとかの精神分析には頻繁に出てくるから、
興味があれば読んでみるといいかも。




あと、桜井さんはまだ生きてるからなぁ…
生きてる人に対して批評すると急に安っぽくなってしまうのは事実。
作品に限ってだけ、分析はした方が良いと先生にも言われたね。うん。
「松本人志を分析する!」なんてやったなぁ。


ちゃんと2年生なれるように頑張って(゚Д゚)
by nasujirou (2007-02-12 11:44) 

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